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「赤灯えれじい」のきらたかし先生ロングインタビュー

週刊ヤングマガジンにて「赤灯えれじい」や「ケッチン」を連載するきらたかし先生へのロングインタビューを行いました。学生時代や上京当時のお話を中心に、次の時代を担う若い世代へのメッセージをうかがいます。

かつては山田玲司先生のアシスタントをされていたそうですね。

きらたかし先生

そうですね。山田玲司先生はとにかく仕事の早い人で、2日もあれば1話分を描き上げていました。予定がズレ込んで締め切り間際に徹夜ということも少なくないこの業界にあって、曜日や時間管理にもきっちりしていて、後々に自分が連載を持つようになった時にとても参考になりました。

先生の人柄も良く、自分からアシスタントに話しかけて場の空気を和ませる方だったのでとても居心地が良かったです。また、時間管理にきっちりしていたおかげで予定外の残業なども少なく、その分を自分の作品創作の時間に充てられたのが良かったです。

現在、きらたかし先生にはアシスタントさんは何人くらいいらっしゃいますか?

レギュラーが3人と、その時々の背景の量によってヘルプの方を呼ぶこともあります。
最近は仕上げ作業をCOMIC STUDIOというソフトを使って行うようになったのですが、トーン貼りが簡単にできるようになったぶん以前よりも細部までこだわってしまって、結局デジタル化する前よりも時間がかかっています(笑)。

―効果線などもCOMIC STUDIOで描いているのですか?

効果線や枠線はデジタルではきれい過ぎてしまうので、アナログで入れるようにしています。できるだけアナログの味を残していきたいと思っていますが、今は試行錯誤をしている途中と言った感じですね。

―アシスタントさんは昔からずっと同じ方ですか?

いえ、1番長い人でも1年半くらいです。「ケッチン」の連載を始めたのが去年の5月からなのですが、その準備を始めた2月頃に採用したアシスタントが2名います。前作「赤灯えれじい」の時から継続のアシスタントはいませんね。

マンガ家を目指そうと思ったきっかけを、学生時代のお話と併せてお聞かせください。

もともと絵は小さな頃から好きだったのですが、高校生くらいの時から、それまでとは少し違った視点でマンガを読むようになったんです。マンガ雑誌1冊を読むとき、前3分の1くらいは確かにすごく面白くて完成度も高いけど、後ろの方の人気がない作品になってくると、「自分にもこれくらいなら描けるかも」と思うようになったんです(笑)。
たまたま小学5年生の時から絵画教室に通っていて、高校生になるとデッサンなど美大受験のためのレッスンをするようになったんですが、徐々に自分の将来を現実的に考えるようになっていき、トップにはなれなくても「マンガ家」にはなれるのではないかと思うようになりました。

高校を卒業後は大阪芸大に進学。1番入りやすかった建築関係の学科に入学しました。どちらにしてもマンガ家を目指すし、大学の勉強内容は関係ないと思っていたのが正直なところ。しかし僕の入った学科はとても課題が多く、実際は常に締め切りに追われる日々でした。なので、あの頃から今にいたるまで、常に締め切りに追われています(笑)。

―大学生活はいかがでしたか?

大学生活はとても楽しかったですね。学生寮に入っていたのですが、やはり美大に集まる人はとても個性が強くて刺激的な毎日でした。大きな夢を持った人も多く、僕の「マンガ家になりたい」という夢なんてまったく珍しいものではなかったんですね。
あと、あの頃はちょうどスキーが流行っていた頃で、クラブ活動でスキー部に入部しました。部活動で他の学校の人との交流があったりして、自分から積極的に外に出ていくような性格になりました。

そんな風にマンガ以外のことでもたくさんの人と交流し、様々なことを経験していくうちに自分が描きたいマンガの作風も少しずつ定まっていきました。

大学4年生の時はギリギリでバブルの時代で、周囲はスムーズに就職が決まっていく中、自分は就職活動のつもりでマンガ1本を仕上げ、少年サンデーに持ち込みに行きました。通常、持ち込みに行くと新人の編集者さんにあたることが多いのですが、その時はちょうどタイミング良くデスクの方が見てくださり、「少しオチの部分だけ変えて、コミック賞に応募してみては?」とアドバイスをしてくれたんです。するとそれが入選して、これをきっかけに卒業後すぐに上京しました。

入選、卒業、そして上京したわけですが、その頃はどんな生活を送っていましたか?

やはり連載を取るまでは厳しい生活でしたね。上京後2ヶ月くらいは一般のアルバイトをしていたのですが、やはりマンガの技術を学ぶためにアシスタントに就くことにしました。
ただ、2~3年はとても忙しくてなかなか自分の作品を描く時間もありませんでした。同期で賞を取った人が早々に週刊で連載が決まる姿などを横目に、先行きも不安になり始めていました。意気揚々と上京してきた時を思うと、理想と現実のギャップを目の当たりにしていた時でしたね。
そんな折に、当時担当してもらっていた編集さんがサンデーからヤングサンデーに移籍することが決まり、同じタイミングで山田玲司先生の所で人手が足りないから手伝いに来ないかという話が来て、山田玲司先生のもとでアシスタントをすることになりました。

山田玲司先生以外では、きらたかし先生が影響を受けたと思う方はいらっしゃいますか?

少し意外かもしれませんが、作品を描く上ではあだち充先生の影響を受けましたね。
『みゆき』や『タッチ』を読んでいたのは一番多感な時でしたし、セリフを極限まで削って、「間(ま)」で雰囲気を表現する手法や、キャラクターが気持ちとは裏腹の行動と取ってしまう部分のやんわりとしたツンデレ感などには影響を受けています。他にも高橋留美子先生や、もう少し深いところまで潜ると藤子・F・不二雄先生、松本零士先生、水島新司先生などです。特に今の作風で貧しさや人情系のネタを扱ってしまうのは、水島先生の影響ですね。
映画で言えば、黒澤明監督や小津安二郎監督、成瀬巳喜男監督など、古い日本映画の渋い演出がとても好きで、影響を受けています。山田玲司先生は、職場でたまにそういった古い日本映画を流していたので、それがきっかけで僕も興味を持ったんですね。

アシスタントをする傍ら、連載もしていたそうですが。

ミリオン出版のティーンズロードという雑誌で、「少女爆走伝説Fair」というマンガを連載していました。ちょうど山田玲司先生のところにアシスタントに行き始めた頃に、大学時代の先輩がミリオン出版さんの他の雑誌でカメラマンをしていて、その先輩から「ティーンズロードが絵を描ける人を探しているらしいよ」と情報をもらい、営業をかけに行ったのがきっかけでした。

編集部批評会の様子 内容はヤンキーマンガだったのですが、まさか自分がそんなジャンルの作品を描くとは思ってもみませんでしたね。歴代のヤンキーマンガを読んでみたり、昔暴走族をしていた方に取材に行ってみたりしながら作品を仕上げていきました。結果、その時描いたヒロイン像が「赤灯えれじい」のヒロインにかなり影響を与えることとなりました。

当時は原稿料も安く、しかも山田玲司先生のアシスタントをしながらだったのでスケジュールもかなりタイトでしたが、今思えばすべて今に繋がっていたなと思います。
他にも関西でしか売っていないバイク雑誌のコラムマンガや小さなイラストの仕事を地道にこなすなど、一見すると目立たない仕事でも、一旦は損得勘定を抜きにして、ずっと誰かの手伝いをしているよりは「自分の作品」を世に出すことを優先させたことはとても大切だったと思います。

最後に、学生へのメッセージをお願いします。

「マンガ家になりたい!」と決心するとき、きっとスラムダンクの井上雄彦先生のようなマンガ家さんを真っ先にイメージする方も多いでしょう。
しかしプロ野球で例えて言うなれば、井上雄彦先生のような方はイチロー選手や松井秀喜選手のような存在。最初から高みを目指すのも悪くはないけど、しっかり着実に自分の作品を仕上げ、持ち込みや投稿など人の目に触れる場所へ持っていきましょう。
今はケータイコミックの登場などでデビューの門戸は広がりつつあります。あまり選り好みせず、少しでも「チャンスかな」と感じた時は自分からチャレンジしてください。
マンガ家になるのは、決して夢のような話ではありません。自分も才能が溢れていたタイプの人間ではありませんし、誰でも頑張り次第で道は開かれる世界です。

お忙しい中にも関わらず、貴重なお話をありがとうございました。

 

きらたかし先生プロフィール 【プロフィール】
きら たかし
兵庫県出身。マンガ家・山田玲司のアシスタントを経て、2003年に「赤灯えれじい」で第48回ちばてつや賞の大賞を受賞。2004年から2008年まで同作を長編化した『赤灯えれじい』を週刊ヤングマガジンに連載。翌年2009年から2010年現在にいたるまで、同誌にて『ケッチン』を連載中。
これらの代表作に見られるように、意気地のない少年が女性への愛情を糧に人格的成長を遂げるストーリーテリングを得意とする。

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