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タケヤマ・ノリヤ イラストレーター

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キャラクターデザインや商品企画(玩具、雑貨)に強く、メルヘンという可愛いイメージにちょっとピリッとしたエッセンスを入れるのがタケヤマ作品の特徴です。また他にも雑誌・広告・書籍装丁・CDジャケットなど、幅広い活躍をされています。今回は、キャラクターデザイン学科・講師のタケヤマさんに、卒業制作展“えび展”会場にお越しいただき、学生時代からフリーになるまでの話を詳しく伺いました。

――タケヤマさんは学生時代からイラストを描かれていたのですか?

高校が大学付属の学校だったのですが、絵を描く仕事がしたかったので専門学校を目指すようになりました。それで高3の夏に親を説得したのですが、「どうせ受験するなら芸大を目指せ」と言われ、新宿美術学院(芸大・美大受験予備校)の基礎科に行きました。それまで全く絵についての基本を学んだことがなかったので、周りが高1とか高2の中で描いていました。その自分より年下の子たちのデッサンがめちゃくちゃ上手でコンプレックスを感じていたのですが、当時の学長に“結構描けるね”、と言われたことがきっかけで自信がつきました。でも、結局二浪してしまって、どこかで簡単だと思っていた専門学校に入るのにすごく大変さを感じました。

――専門学校はいかがでしたか?

課題がめちゃくちゃ多かったです。毎回授業の課題が出て、毎回提出なんです。ドイツのバウハウス(※1)をベースとしているので、職人を育てる感覚でした。それは、彫刻だったり、インテリア、プロダクト、グラフィックだったり・・・とにかく一年生のうちに全てをやり、二年次に上がるときにコースに分かれるんです。

――そこでタケヤマさんはどちらのコースに行かれたのですか?

僕は、小学生の頃からイラストを描きたいと思っていたので、グラフィックコースに行ったらみんなと同じ絵になるだろうなと、なんかひねくれた考えがあり、プロダクトコースに行ったんです。それには、自分の絵を商品とか立体物にしたいという思いがありました。僕は、レゴ(※2)とかプレイモービル(※3)とかいうおもちゃが好きで、そういうプロダクトがやりたかったんですが、他のプロダクトの子たちは車とかバイクとかハードなものが好きで、話が合いませんでした。だから友達もほとんどいなくて、今でも付き合いがあるのは、一年次に同じクラスだった人たちです。でも、唯一おもちゃが好きな子がいて、その子は今、メディコムトイのベアブリック(※4)で働いていて、やはりおもちゃの仕事をしています。
それで、学校の方に来た就職の募集で『タカラ』があったんです。当時は、バブル期ほどの甘さはなく、今のような厳しさもなかったので、学校に入るのには苦労しましたが就職だけは一番に決まったんです。しかも“リカちゃん(※5)課”に。

――リカちゃん課、という単独の課ですか?

はい。今はもうないんですが。当時、可愛いものには全然興味がなくて、アメリカンコミックスみたいなフィギュアが好きだったので、なんで俺リカちゃんなんだろう、やだなぁ、って思いました。当時は他に、“ジェニー課”“BOYS課”“ネクスト課”とかがありましたね。タカラっていうのはそもそもリカちゃんで成功している会社なので、女の子のおもちゃが得意なメーカーっていう印象が業界にはあるみたいです。それで、リカちゃんとジェニーっていうのは独立した課がありました。

――タケヤマさんが“リカちゃん課”に入られた時はリカちゃんの人気はどのくらいだったのですか?

もう、すごく下がっていました。ジェニーがファッションドールっていうイメージがすごく強くていいときでした。
だから余計いやだったんですよ。僕が入る前、リカちゃんは50億の売り上げがあって、僕が入った年が30億まで下がっていて、一番悪い時だったんです。

――タケヤマさんがリカちゃん課に入られた意図と、低迷期からまた盛り上がって来るまでの過程をお聞かせください。

リカちゃん課っていうのは、面白い人が多くて、その面白い人たちと一緒にやれるのはタケヤマだろってことで配属されました。多分、皆さんもそうだったと思うんですが、幼・小・中・高・大、あるいは専門と学んできて、自分の中では今が一番のトップにいる時って思うんですよ。だから僕も生意気でした。せっかくリカちゃんやるんだったら、リカちゃんを変えたいと思ったんです。それで、リカちゃんハウスについている食べ残しとか、ゴミとかそういうのを作りたいと考えました。でも、売上が下がっていると何をやってもうまくいかない。逆に売上のいいジェニーは何をやってもうまくいくというかんじでした。それで、話すと長くなってしまうんですが・・・。

――ええ、是非お願いします。

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二年目くらいのある時、社長プレゼンがあって、リカちゃんについての企画を色々考えて、その提案を役員や社長にプレゼンするという時があったんです。その時、僕が発表している最中に、突然、社長が壇上に上がって、 「リカちゃんやめましょう。」
って言ったんです。リカちゃんやめましょう、ですよ。これからって時にいきなり。それで一応用意したものをそそくさとプレゼンして帰ってきたんですけれど、みんな呆然としちゃって。でも、すぐにはなくせないんです。そこをなくすと売り場が空になっちゃって、そこにライバル会社の商品が入ってしまうので。
その時、僕はマーケティングを担当していました。当時リカちゃん課にマーケティング担当は3人いたんですけれど、その3人でリカちゃんのテーマっていうのを深夜残業しながら考えていました。どうしようか、どうしようか、って。でも全然思いつかなくて、ずっと会議です。それで、最終的に、どうせやめるんだったら、幻だったリカちゃんのパパを出そうってなったんです。パパを出すことによって、売上を上げるのではなくリカちゃんというキャラクターはどういう子なのかという事を確立することにしたんです。パパとの関係はどうなのか、パパが出てくればママ、リカちゃんの下にいる双子とか三つ子とかの、姉妹との関係。そういう家族っていうテーマを出すことで、リカちゃんの本来のキャラクターはどういう子か、ってことを見直したんです。

――それまで、その“家族”っていうものはなかったものだったのですか?

あったんです。あったんですけれど、それまでアピールしていなかったんです。売上を稼ぐ為にハウスがどんどん大きくなって、高価になっていくっていう商法でした。そうじゃなくて、まず主役のリカちゃんはどういう子か、ってことを考えました。

――まさしく原点に返ったわけですね。

そうです。バックトゥザベーシックってその時思っていたんですけれど、ベーシックなものに立ち返って、もう一度見直そうっていう始まりがパパだったんです。そこから、家族が過ごす家、買い物に行くデパートをハウスとして提案して、もう、社長にそういう事言われているので、最終的に通っていくわけです。それで、パパが発売になり、家族全員が住める家が2階建てになって・・・。売れなくなった商品で高い商品を出すっていうのはタブーなんですけれど、チャレンジで高い商品を出したんです。それで、その家族というテーマの話題性が受けて、リカちゃん課は売上を20億取り戻したんですね。それが、僕が入って初めてリカチームとして成功を見られた時でした。

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――タカラにいらっしゃる時にご自身の制作はされていたんですか?

いえ、出来なかったです。それは怠惰ではあったんですが。でも、入って3年目くらいのときに、辞めたいなって気持ちがあってちょこちょこ落書きはしていました。仕事中も、会議中もしていて・・・。それで、会社に内緒でソニークリエイティブのキャラクターコンテスト第一回っていうのに応募して、優秀賞をいただいたんですよ。

――それがフリーのきっかけになったのですか?

そういう希望はあったんですが、リカちゃんでやらなきゃいけないこともあったし、結局、僕はリカちゃん課の人たちが好きだったのでいたんですけどね。
世の中に出るっていうのはチームプレイで、フリーでやっていてもチームなんです。仕事先の人と臨時的に組んだり、そういう協調性を求められるシーンは出てきます。

――その後はどういった経緯でフリーになっていかれるのですか?

結局タカラには5年ほどいました。でも、フリーですぐにはやっていけず、結局もう一度就職しました。そこが、ジグソーパズルの会社で、変な言い方なんですが、タカラのように大きくなくて、印刷の写植だとか版下だとか全部自分でやらなくてはならなかったんです。印刷物は色が勝負ですから、そこでグラフィックの勉強が出来て、その後につながる勉強になりました。

それで、その会社のデザイン室のデザイナーさんが渋谷の宇宙百貨が経営するギャラリーのアートワッズの方と同級生だから、「イラストを描いているんだったら見せに行けば?」と言ってくれて、それで見せに行ったんです。そこで、すごく気に入ってもらえて、宇宙百貨はイラストとかをポストカードにして売って、そのカードの売れ行きでバッグやマークアップリケにして商品展開していくんです。

――その時、どのような作品を描かれていたのですか?

ポストカードはまず、作家が実費で作るんです。この時に、タカラでマーケティングをやっていた時のことが役立って、女性のお客さんが多いのに女性向けのカワイイ絵がないなって思ったんです。モチーフ的には人物だったり、アート寄りのイラストレーションだったりが多かったです。じゃあ、自分はどうするかって考えた時に、懐かしさっていうのを出したいなと思い、動物をモチーフに使った絵を描いて、うまくいきました。それが、きっかけになりました。それでたまたま、最初の持ち込みでうまくいったんですけれど、それまでの修行期間は長かった気がします。

――タケヤマさんのプロフィールに“60年代からきた昭和の・・・”

メルヘン魂。
皆さんもそうだと思うんですけれど、子供の頃に見たものがどこか記憶に残っていて、懐かしいなぁ、って思うことをなんだか分からないうちに描いてることがあると思うんです。それで、僕も当時見た60年代の可愛いっていう懐かしさをイラストで表現したいなと思いました。

――タケヤマさんは仕事をするときにどのような姿勢で制作をされているのですか?

これは、授業でもちょっと言ったんですけれど、自分がこうしたい、っていうのをハッキリ持つことと、それを口癖にして具体的に思うってことですね。持ち込みも勿論やってほしいです。でも、中々決まらないことが多いです。結局一つの仕事がつながっていくには、その人と仲良くなる必要があるので、持ち込みをするんだったら、自分の好きな人に指導していただくつもりで行かなければならないです。すぐに何かにつながるという夢を描くのではなく、もうちょっと謙虚な姿勢で、時間をかけて何度も何度も持って行き、“指導を聞いてこう変えました”、っていうふうに見せたり、好きだったら何度もトライする。そうすると何かが開けてきます。

――今後、キャラクターを作っていく学生たちにこれだけはしておいた方がいいということはどういうことだと思いますか?

まず、課題をこなして締め切りを守るくせをつけるということです。
これは、間違いないです。どうしても学校の中で“これぐらい遅れても大丈夫だろう”っていう気持ちがあると思うんですけれど、プロになる勉強をしている上で、まずどこでプロが計られるかっていうと、そこなんです。そして数をこなすこと、たくさん描くことです。それで煮詰まったら気分転換に外に出て、街を見たりして刺激を受けることをして欲しいです。それを、脱皮する手前の学生のうちにして欲しいです。締め切りがあるので、作品の良し悪しはどうしても出てきて、先生によって評価の基準はあいまいだったりする場合もありますが、まず、出来ることはちゃんと出席して、締め切りを守ることです。学生のうちは描ける、描けないはあると思うんですが、社会に出てからもあせらずにやっていって欲しいです。

――ありがとうございました。

※1 バウハウス・・・1919年、ドイツのワイマール市に開校された、造形芸術学校。
※2 レゴ
※3 プレイモービル・・・1974年にジオブラ・ブランドスタッター社(ドイツ)より発売されたプラスチック製の小さな人形のシリーズ。世界中で愛されている定番おもちゃで、発売以来変わることのない丸みを帯びた優しいフォルムが、子どもはもちろん、大人のコレクターにも人気。
※4 ベアブリック 
※5 リカちゃん

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