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大ヒット・アニメーション『鋼の錬金術師』の監督・水島精二氏

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【プロフィール】
水島 精二(みずしま・せいじ)1966年生まれ。東京都出身。撮影会社を振り出しに、制作、ゲーム、TVアニメーションの各話演出を手がけ、1998年『ジェネレイターガウル』で監督に。『地球防衛企業ダイ・ガード』『シャーマンキング』『鋼の錬金術師』、劇場版『鋼の錬金術師~シャンバラを征く者~』『交響詩篇エウレカセブン』(絵コンテ)『大江戸ロケット』『機動戦士ガンダムOO』等、多数の作品で活躍中。

【アニメーション学科へのメッセージ】

水島精二監督からは、アニメーションの演出を志す人へ向けて、こんなメッセージを頂きました。

「演出って、いろんなものに興味を持って、知識欲もあって、実体験もすること。そういう人が向いているんじゃないかと僕は思っています。いろんな事を知っている方が有利だと思うんですよ。アルバイトでも、いろんな体験をして欲しいですね。知っているというのは、まず強味ですから。アニメだけ見て、漫画だけを読んで、というのは無理があると思いますね。

監督はひとりで仕事をするわけではなく、集団の要(かなめ)となる存在なので、人を思いやる気持ち、人間力とでも言うのかも知れませんが、他者とのコミュニケーション能力は必要不可欠だといえます。

学校ならば、勉強以外にも同好の士がいると思うんです。そうした人と、ディスカッションをして、相手の意見を簡単に否定するんではなく、なぜその人はその作品が好きなのか嫌いなのか、ということをよく観察すれば、その相手の事もわかってくると思うし、その経験はあとになって作品に生きてきます。

 あとは、まわりのものを貪欲に吸収していくこと。センスはあとからでも磨けます。
演出は、特別センスが良くなければ出来ないって仕事ではないと思っているんです。
僕は、自分がセンスが良いとはと思っていませんし。
人の気持ちを揺さぶるというのは、綺麗な絵、カッコイイ絵といった映像表現だけはなく、おおもとに必要なのは、人間的な力だと感じています。

若い時期には若い悩みや自信や挫折があっていいと思うんです。それもまた糧となると思っています。がんばってください」

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待ち合わせ場所に颯爽と現れた水島氏。
眼鏡がまた違う・・・。

【水島精二監督氏インタビュー】

 大ヒット・アニメーション『鋼の錬金術師』の監督・水島精二氏。2005年夏に公開された劇場版『鋼の錬金術師~シャンバラを征く者~』はヒットし、多くの取材・記事などでご記憶の方も多いだろう。

「眼鏡くらいしかお洒落する所がないんですよね(笑)」

早速だけど、水島精二氏が水島精二監督になるまでの経緯などを今回聞かせて頂こう。。小さい頃からアニメや漫画は見ていた?

「子供の頃は、良く見ていましたね。6歳上の兄貴と一緒に見ていました。『マジンガーZ』なんかをやっている世代ですから。但し、『天才バカボン』は見せてもらえませんでしたねえ。親に、見るとバカになる、と言われて(笑)。普通にアニメや特撮の好きな子供でした」

アニメを意識したのは中学時代。水島氏は、知り合いになったひとつ下の友人の家に遊びに行くと、その子に部屋に「アニメージュ」があった。

「その子から『機動戦士ガンダム』の話を聞いて。その後、家で見たんです、『機動戦士ガンダム』を。テレビをパチっとつけたら・・・・・・『あれは憎しみの光りだぁ!』っていう台詞で。次に見たらもう最終回でした(笑)。だから『機動戦士ガンダム』をまともに見れたのは劇場版からなんです。でも『アニメージュ』を買い始めて。『銀河鉄道999』や『カリオストロの城』なんかも劇場で見て。そのあと高校に入ってからは、漫研(漫画研究会)に入って、みんなでアニメの話をしてという王道ですね」

高校時代は、スタジオNo’1やZ5、テレコムの話などをする、所謂アニメファンであった。この時の漫研にアニメーション作品『スーパーロボット大戦』の田中良氏がいた。
そして、気になる高校卒業後の進路だ。

「アニメーション科のある専門学校に行きたい、と。その頃は、アニメーション科のある専門学校って、少なかったんですね。進路相談の先生には『おまえら、世捨て人だ』と言われて(笑)。すいぶんなことを言われましたけど、自分で決めたことですから」

時はガンダムによって火のついたアニメーション・ブーム。専門学校のアニメーション科は、物凄い盛況だった。

「自分がクラスでJだったかな。友達に聞くと、KとかLとか言う。一体、何人いるんだっていうくらい物凄い人数でした。全員来ると席に座れない。1年目は何していいのかもわかりませんでした。2年になると、実習も増えて、それぞれのコース分けされて。僕は制作管理コースだったかな。演出希望は、制作管理コースで3クラスでした。作画コースは、8クラスくらい。卒業制作で短編フィルムも作りました。コンテも描いたり、色を塗ったり、いろいろやりましたねえ」

そして、専門学校から、就職。ところが、就職活動の大事な時期である夏に、水島氏はバイクで転倒、骨折、入院していまう。

「まったく就職活動が出来なかったんですね。高校の先輩を頼って、アニメの撮影をやっている会社に履歴書を送って。撮影会社に就職したんです」

撮影会社に3年間在籍。撮影という職人技では、凄い方がいたが、撮影の仕事は減って行く時期であった。演出を目指す水島氏は、演出助手としてでもどこかに入ろうとするが、イキナリ演出では無理なので、あらゆるツテを頼り、サンライズで制作進行となる。制作進行から演出というのは、割と多いのだ。

「制作進行の時は、ちゃんとやればやろうとするほど、しんどくなっしまって。がんばっているスタッフに応えようとしたら、どんどん寝れない状態になっていく、このままじゃ死んでしまう、と(笑)。その時に、現在ボンズの南さん(『鋼の錬金術師』のプロデューサー)と同じ部屋にいたのです」

テレビから一転してOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)を手がけるスタジオ・ファンタジアへ演出助手として入る。

「テレビからビデオですから、かなり暇にはなりました。けど・・・でも、不安でしたね。年間に2本くらいしか作らないから。僕は演助(演出助手)としてやっていたんですが、結局、制作も出来て、演助も出来るから、使い勝手が良いんです。ある時、酒席で上司に演出をしたいと言ったら、キミは一生演助だよ、みたいな事を言われて、それで、会社を辞める決意をしました。」

スタジオを辞めた水島氏に、今度はゲームの中に使用するアニメーションの仕事の依頼が来る。

「ゲーム会社としては、社内に中に入ってやってもらいたい、と言われて、そこで、そのゲーム会社へ入って・・・RPGゲームをやって、レポート書いてましたね(笑)予定の仕事がなかなか動かなかったので。
その後、再びスタジオファンタジアから声がかかって、西島さん(西島克彦監督。『炎の転校生』『AIKa』を監督。現在OVA『きらめき☆プロジェクト』が発売中)の仕事をすることに。『甲竜伝説ヴィルガスト』で初演出です」

西島監督とはこの後も仕事は続くのだが、水島氏には転機とも言うべき状況になるのだった。

「30歳になるかならないかの頃ですかね。作品を作る上で同じスタッフ・ワークになってしまうのは問題あるとメーカーのプロデューサーに言われたんですね。で、僕の仕事がなくなってしまって。かなりくさっていた時期でした。そんなツライ時に、吉松君(吉松孝博氏。『サイバーフォーミュラ』劇場版『スレイヤーズ』『トライガン』『砂ぼうず』などのキャラクターデザイン・作画監督。サムシング吉松名義では、漫画も発表)に、アメリカにプロレスを観に行かないか、と誘われて。一度は断っているんですよ。

でも、他に行く人間がいなくて、再度誘われたんです。そんな、くさってはいた時期だったんですが・・・・ロサンゼルスに降りて、なんて空がでっかいんだ!(笑)。建物はほとんど低くて、空がでかい。行ったのは、ロサンゼルスなんですが、もう陽気なアメリカンなお兄ちゃんお姉ちゃんばかりという街で、なんか凄く気持ち良かったんですね。大きな空と陽気な人たち。その時に、細かい事をごちゃごちゃ考えても仕方ないなあ、と前向きになれたというのが大きいです」

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アメリカ旅行から帰ってきてからは、『ジェネレイターガウル』『地球防衛企業ダイ・ガード』と着々と監督として仕事をしていく。『シャーマンキング』は、「アニメージュ」での取材で、原作漫画をやるとしたら、何をやりたい?というのがあって、その時に言ったのが『シャーマンキング』だった。

「言霊に助けられてますね。僕は、実はオリジナルにそんなにこだわっていないんですよ。無理してオリジナル・アニメを作るよりも、違う媒体のものにも、引きつけられる物はたくさんありますから。映像化の工夫をちゃんとすれば、面白いものは出来ると」
続く『鋼の錬金術師』の人気は、今更ここで話すことも無いだろう。もちろん、劇場版も大ヒットした。

「ハガレンをやるんだったら、相当厳しい描写も逃げないでやりたいって思っていたんです。スプラッタ的な味付けでなく、人間のやった愚かな行為や命の重さ、業をきちんと見せないと。作り手として、痛みを共感させる。そういうことも考えていました。劇場版については、なんというか一発勝負みたいなもので、初監督ですから不安は凄く大きかったですね。次はこの経験がありますので、また違ったやり方もあると思っています」

筆者は水島氏とともに、金沢や前述したアメリカへのプロレス観戦ツアーへも同行したのだが、その旅行で印象に残っている事がある。細い廊下を縦列に並んで歩いていた時だった。
「燃えるなあ! こういう狭い場所を通ると、演出的にどうするか考えると燃えるッ!」
遊びと仕事ではなく、生き方が演出家なんだ、この人は、と思った瞬間である。

取材・文 ドクトルF

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